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明治37・39(1904.5)年の日露戦争では、多くのロシア人やポーランド人が捕虜となって日本へ連れて来られました。松山はその捕虜を最初に収容した土地で、当時人口3万人ほどの松山に、多い時で4千人、延べ6千人もの捕虜が住んだといいます。
ハーグ条約締結後であったことから捕虜の生活は大変に厚遇されており、特に将校には比較的自由な生活が許されていました。また、下士卒にも道後温泉入浴、三津浜や五色浜での海水浴などの楽しみが与えられ、その一環として道後公園で「兵士を乗り手に自転車競技会をやろう」という案が出て、明治38年8月には多くの来賓とロシア人兵士、そして市民の応援を受けて道後公園でにぎやかに「競争会」が開催されました。
ただし、同年9月には日露講和条約が調印されて日露戦争が終結。兵士たちは母国に帰国したため、自転車競争会は一度限りのものとなりました。その後、大正5年11月19日には、道後公園で日本初の全国自転車競争が開催されたのは、ロシア人たちの残した功績だったのかもしれません。 |